前回の〈「ハケ」は、「ガケ」ではない。まして「崖線」ではない〉(2016・11・20、collegio.jp/?=819)および〈水の場所〉(2016・9・22、collegio.jp/?=813)は、拙著『江戸の崖 東京の崖』の訂正補遺であるが、ことのついでに訂正3として標記についていささか述べておきたい。

国分寺崖線の定義については、松田磐余先生が『季刊Collegio』(No.62、2016年夏号)について述べているのがもっとも妥当すると思われるので、以下長くなるが引用しておきたい(数字表記を改変)。

 〈武蔵野台地を多摩川沿いの地域で説明する時の必須の術語が国分寺崖線で、大岡昇平の『武蔵野夫人』(雑誌『群像』、1950年)で使われた「はけ」と一対で出てくることが多い。筆者もそうであったが、地理学専攻者でも、命名者を知らずに、国分寺崖線という術語を使ってきた。『武蔵野夫人』が発行された2年後の1952(昭和27)年に、国分寺崖線という術語が福田理と羽鳥謙三両氏によって定義されたことを世に知らしめたのは本誌を発行している芳賀啓さんである。その経緯は日本地図センター発行の『地図中心』2012年3月、4月号に掲載されている。両氏の定義を簡略化すると、国分寺崖線は、武蔵野段丘と立川段丘とを境する段丘崖で、北多摩郡砂川村九番付近から世田谷区成城付近に至る、となる。砂川村九番(現立川市幸町)から段丘崖が明瞭になるし、世田谷区成城の約100m下流で立川段丘は沖積面下に埋没していく(交差する)ので、この間を国分寺崖線と呼んだと推測できる。
 鈴木隆介氏は『建設技術者のための地形図読図入門 第3巻 段丘・丘陵・山地』(古今書院、2000年)の中で、段丘面が2段以上あるときに、一つの段丘面の後面(高い方)の崖を後面段丘崖、前面(低い方)の崖を前面段丘崖と呼ぶことを提唱している。扇状地などの氾濫平野は、離水後、ほぼ同時に前面段丘崖が形成されて段丘面となる。国分寺崖線を地形学的に定義すると、武蔵野段丘の前面段丘崖、もしくは立川段丘の後面段丘崖となる。どちらの定義でも、国分寺崖線は成城付近で終わらなくなる。前者の定義を採用すると、国分寺崖線は武蔵野段丘が続く限り、下流部に延長でき、田園調布台まで続く。また、現在では、武蔵野段丘はM1、2、3面の3面に区分されているので、形成年代の異なる段丘面の前面段丘崖の連続となる。後者の定義を採用すると、立川段丘が沖積面と交差しても、段丘崖は沖積面下に下部が埋まって、上部が沖積低地から顔を出すことになる。多摩川低地の下流部は縄文海進時に埋積されているので、多摩川低地と武蔵野台地間の段丘崖は国分寺崖線となる。崖線という術語は「はけ」と同様に地形学用語ではないので、混乱をさけるためには、国分寺崖線は福田・羽鳥両氏の定義を使用して位置を確定し、より下流部の段丘崖は、その延長部もしくはほぼ同時期に形成された段丘崖としておけば無難であろう。〉

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鈴木隆介『建設技術者のための地形図読図入門 3 段丘・丘陵・山地』560ページの図11.1.3(段丘模式図)から、段丘面、段丘崖、開析谷および前面・後面段丘崖の関係

引用文末の「崖線という術語は「はけ」と同様に地形学用語ではない」とあるところに注意されたい。
1981年に刊行された『地形学辞典』にも「崖線」という用語は見当たらない。一般の辞典にも同様であることは既に拙著に触れておいた(『江戸の崖 東京の崖』17ページ)。何故か。

鈴木隆介著『建設技術者のための地形図読図入門 1 読図の基礎』(1997)の139ページ、「地形面の定義」の項に地形面のもつ6種の性質の説明があって、それにつづいて
 〈これらに対して、段丘崖、谷壁斜面、地すべり地形、山地・丘陵の斜面などのような急斜面で構成される地形種は地形面とはよばれない。なぜならば、これらの地形種も上記の①~④において等質性をもつ部分に細分されるが、その等質性をもつ部分は一般に小面積であり、かつ地形変化速度が緩傾斜ないし平坦な地形面に比べてはるかに大きく、その形成時代を特定しがたいからである。〉
と記す。
要は、地形学上、急斜面(崖)は本質的存在とはなり難い、ということである。

さらにつづけて、
 〈重要な地形面には固有名を付ける。東京付近では、下末吉面、武蔵野面、立川面などが著名な地形面である。地形面の命名法については国際的な規約はないが、地層名の命名法と同様に、慣習的には次のように命名される。/①その地形面の最も代表的な地区に成立している地域や都市、集落の地名を付ける。その際、分布範囲の広い地域面については、それにふさわしい広域的な地名を付ける。/②地名+地形種名の形で命名することもある。/③狭い地域に、同じ地形種で、しかも新旧の地形面がいくつもある場合(例:段丘面群)には、その地形場にしたがって上位面、中位面、下位面とか、形成順序で古期面、新期面あるいは数字を付ける(略)。/④人名や研究機関名は付けない(地形は人類共有の自然である!)〉
と、地形面の命名法に触れているが、「国分寺崖線」については、同『建設技術者のための地形図読図入門 3 段丘・丘陵・山地』(2000)の615ページ、「侵食扇状地起源の広い岩石段丘」の項において〈立川面の後面段丘崖は延長が長いので、とくに国分寺崖線と命名されている〉として、例外的な命名であることに注意を促しているのである。

「国分寺崖線」とは、例外的に許容された地形名である。
つまり〈××崖線〉などというネーミングを勝手に乱発してはいけないのである。
拙著の「日暮里崖線」という言葉は取り消さなければならない(p.6,18,19,25,26)。
まして、命名法にまったく無知で、その原則に違背している「南北崖線」などという呼名においてをや(〈《南北崖線》という「ネーミング」について-『き・まま』4号に寄せて〉2015・4・25、collegio.jp/?=737参照)。

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自著を批判すれば「自己批判」ということになるが、2012年8月初版第1刷、2014年7月に第6刷で、発行およそ1万部とはなった拙著『江戸の崖 東京の崖』(講談社)だが、それぞれの段階で訂正があるから、正しくは「刷」ではなくて「版」なのである。

故鈴木理生氏の拙著評「迷著のような名著」は言いえて妙だが、度々の訂正にも漏れて、さらに訂正を要する箇所に、序章(3ページ)の〈「haga」(鼻濁音注意)は、「hake」や「gake」「bakke」同類、崖地をあらわしたもの、というのが定説。〉および第1章コラム②(16-17ページ)の〈「八景」も、「ハケ」hakeや「バッケ」bakkeと同根の「ハッケ」hakkeをオリジンとしたもので、これらは皆現在「ガケ」gakeと呼ばれる「地形」 を指した用語。〉がある。

いずれも「ハケ」という、地域的民俗用語にかかわる部分である。
つまり拙著では音韻形を根拠として、「ハケはガケである」と一括してしまったのだが、ここ2、3年、国分寺崖線を歩いていて、そうではなさそうだと思われてきた。

それはもちろん現実の「場所」と「光景」の力のゆえである。
通勤経路としている国分寺市東京経済大学の新次郎池も、また同市のお鷹の道の真姿の池や、小金井市の貫井神社、中村研一記念小金井市はけの森美術館、そして小金井市の滄浪泉園も、すべてハケであるが、それすなわち「ガケ」という等式からは乖離している。

それらの場所はすべてガケ下の湧水地(池)で、しかも崖線を抉った「窪地」である。
つまり、ハケはガケそのものの称ではなく、本来ガケ下の湧水箇所とその地形を言ったものではないかと・・・。

その思いは、ガケ(崖)すなわち段丘崖と段丘の地形学的理解とも平行していた。
国分寺崖線を一通り歩き、その崖線を侵食する大小の開析谷を見てきたことも大きい。
つまり「国分寺崖線エリア」には、すくなくとも二種類の「崖」が存在すると考えたのである。
ニ種類の崖とは、「崖線」と言いえる古多摩川がつくりだした段丘崖と、それをほぼ直角に開析した開析谷の谷壁、の二種類である。

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図の東西に走る標高約60~70mの等高線は国分寺崖線。それを抉(えぐ)る形の、東京経済大学新次郎池と貫井神社弁天池を擁する2つの「ハケ」地形を見ることができる(1:10000地形図「国分寺」1990年修正)

そして今、はっきり言えることは「ハケ」は即ガケ(崖)でななく、まして「崖線」ではない、ということである。

そもそも「ハケ」という言葉を人口に膾炙せしめた嚆矢と思われる大岡昇平の『武蔵野夫人』(1950)の冒頭にも
 〈どうやら「はけ」はすなわち、「峡(はけ)」にほかならず、長作の家よりはむしろ、その西から道に流れ出る水を遡って斜面深くに喰い込んだ、一つの窪地を指すものらしい。〉
という正確な叙述が存在したのである。

もうひとつ文献を示しておこう。以下は『小金井市史Ⅴ 地名編』(1978)の19ページからの引用である。
 〈この連続した一連の段丘崖の頭部を結ぶ崖線には、ところどころ斧でv字状に彫刻したような”ノッチ”(小裂け目)がある。このノッチの上部では地表水が集まって頭部侵食を進め、下方では地下水が湧き出して釜状の小盆地をつくり出す。台地上から吹き下りる風は、この盆地を迂回しつつ下りてくる道とともに、この盆地に集まってくる。この崖下の釜からモクモクと湧出した泉の水は、集まって崖下に”吐出”される。いわゆる”はけ”とはこのような地形をもつところに名付けられた地名である。しかし、幕末時代、すでに”がけ”(崖)の別名へとさえ変質している。戦後、大岡昇平氏の『武蔵野夫人』以来有名となった。・・・〉

「ハケ」は崖線下の湧水とは限らない。「水が吐かれる場所」であれば、段丘面の浅い谷の谷壁崖にもハケは存在する。同書130ページ、現在の貫井北町2~4丁目の小字名「小長久保」の項に「はけ」と見出しがあって、〈坂上の東北、北方台地の崖面から夏場だけ湧出した泉を、この地方の人たちは”はけ”と呼んでいた〉と記述されているのは見逃せない。

東京の地形を研究する田中正大氏も、ハケとは「崖線そのものをいうのではなくて、崖線に刻み込まれた特殊な形をいっている」と記す(『東京の公園と原地形』2005、p.160)通り、ハケは崖下(かならずしも「崖線」下ではない)から湧き出、崖自体を侵食した小さな窪地のことなのである。

『小金井市史』に多少留意点があるとすれば、”v字のノッチ”は、崖下から湧き出る地下水が地表を谷頭侵食して形成したもの、と考えたほうが一般的であるから、ハケは「地表水が集まって頭部侵食を進め」るというより、崖線下部の湧水侵食による、と書くべきであったろう、というところである。

最近、冒頭に掲げたようなチラシを見た。
これが拙著の誤った影響でなければよいと思うのだが。

私がかつてそうであったように、「国分寺崖線」の理解が半可通であると、崖線と開析谷壁についても、混同というより同一視される。
それは行政や民間のつくる「崖線マップ」のたぐいに著しい。
多くの「マップ」には、野川の源流とされる国分寺駅北の日立中央研究所のさらに北側まで「国分寺崖線」が描かれている。しかしそれらのほぼまっすぐ北上あるいは南下する平行斜面の連なりは、国分寺崖線ではない。段丘開析谷の谷壁(こくへき)崖であって、国分寺崖線はその谷によって部分的に断ち切られているのである。

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上掲は「野川の水源」とタイトルのある説明板。設置主体名の表示がないが、多分国分寺市役所の土木関係部署であろう。茶色の帯は凡例に「国分寺崖線のイメージ」とある。地形環境上の知識の普及努力には敬意を表するが、誤まりは誤りである。この写真の範囲では右下の一部だけが国分寺崖線で、それ以外の茶色の帯は開析谷の谷壁である。崖は崖でも〔単なる〕崖線(がけせん)と〔国分寺〕崖線(がいせん)とは違う。それを形成した地形営力(geomorphic agent)も、地形学的時間(geologic time)も異なるからである。

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詩集『國安』

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活断層「現代詩」の露頭から、突如姿をあらわした‟謎の法螺貝物体‟
蛇崩れなるか、龍と昇天するか、《奥州仙台詩魂》の超新星・第3弾!

『國安』(くにやす・佐山則夫詩集3)
ISBN978-4-902695-29-8  C1092
B5変型判 307ページ ハードカバー
本体2400円+税 限定250部

目 次

集団即狂
カリフォルニアオレンジ/診断/捜しています詩を書かせるパスタ/ハイシーシー ハイDоDо/バランス/変わった家に暮らしています/愚息/おとなりの前田さんのおばあちゃん/おとなりの前田さんのおじいちゃん/豚足と鶏頭/しゅんのしゅん/豊島/万事豆腐/余は立権主義なり/國安/ヤポンスキーレーニン/生る神
 
ラリレオ・ラレリイ
グランドマザー/℉さんの詩集/詩刑制度/ガーネットとガーベラ/マニキ・ニョッキ/ラリレオ・ラレリイ/自分の懇意としている絵描き/詩人は群れるなよ/寓話作家ヤンデルセン/足橋/詩人塚/吉田模型/周知の事実/豚娘(つづき)
ぼくだよザインチェフ 私だ 献詩/西瓜一考/ラッパ吹きとラッパ拭き/知ってるよ君のこと/高名詩人/われら一族/人生究極の目的は/納税詩人/芭蕉の祖父の遠縁にあたるバレリーナ/うんと血管を窄める斜め物故詩人の集会で農民詩人は……/泉は便器に非ず/ぼくだよザインチェフ 私だ/泡・豆・粒子

ああそうだ チャベンスキーの一件 未だ詳しく話してなかったね
巻頭詩/昨日の晩は荒れたね/外国の異教徒が書いたと言われる詩を盗み読む喜びをお赦し下せえ/私は卵料理に豪腕をふるってきた牢番である/んではお先に/汚物殿下/バケツ/ぼくの名はビル/地面を掘る人々/足吊岬/死体運搬車/御前にて/笊/ああそうだ チャベンスキーの一件 未だ詳しく話してなかったね/解体段ボール/縫い目

短い後書・目次

佐山 則夫(さやま・のりお)
1949年1月、地球に生まれ、現在に至る。とはいえ、生まれも育ちも現住も仙台。
他に詩集
『イワン・イラザール・イイソレヴィッチ・ガガーリン 佐山則夫の詩1 』ISBN978-4-902695-22-9
B5変型製 76ページ 本体 925円+税(之潮刊)
『ウマーノフはぼくじゃない 佐山則夫の詩2』ISBN978-4-902695-23-6
B5変型製806ページ 本体 925円+税(之潮刊)
『首饂飩』(売り物でねえのっ社・自筆出版)がある。

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評林・白泉抄

僭越乍ら今号より暫し本欄にてお目汚し参らせたく存じ候。兄姉如何なればと問ふなかれ。

現今吾等往方に形なく色なく而しておほいなる陥穽待ち構へをるにあらざるか。
其の無形強ひて名付くれば「日本」ないし「日本的なるもの」なるべし。

世々日々圧力を増す袋の如き壁の如き存在是にて、彼の内部にありて将来にわたり正気を保つこと中々に易からざるものありと存じ候。
「空気」変容相伴い増長するは無知と無理或いは野蛮と畸形、総じて日本ないしその「文化」より還元さる「矮小」なるべし。

吾等が自然なるもの人間なるもの普遍なるものは居処(きょしょ)を狭くし或はそを失はんとす。

日米開戦の報に接し一回転せし高村光太郎の脳髄その典型と認めて然るべし。「異様」を異様(ことざま)と認むる眼こそ欲し、また貴く存じ候。

我列島内外幾百万の飢餓屍を延べしかの戦の折、いささかの「正気」を保ち、そを表しえた渡邊白泉(1913・3・24‐1969・1・30)の稀有なる俳業をこそいま見るべきと存じ拙文起こし候。

「戦争が廊下の奥に立ってゐた」

こは彼(か)の代表句にして、現代日本語短詩(俳句)最大遺産のひとつと存じ候。

己を取巻く「空気」をして斯く如く凝縮具現せしめたはその「正気」ならずや。此処に加へ、敢へて『渡邊白泉句集・拾遺』(1975)収録句の末尾より

「桃色の足を合はせて鼠死す」

を掲げたし。昭和32年頃(1957)と注記あれば沼津高校教師時代毒団子鼠見ての作ならむ。

季語の有無何せむ、ヒューマン否、己もまた生けるものてふ悲哀失わざるこそ貴ければ。(青崖・続く)

【「ナベサン句会報」第7期9号、2016・9・15掲載】

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水の場所

東京経済大学国分寺キャンパスに存在する湧き水といえば、新次郎池。

「東京の名湧水57選」のひとつに数えられ、北澤新次郎元学長の名を冠したこの国分寺崖線下の湧水池には、かつては常に清冽な地下水が注ぎ込み、ワサビ田でもあったといいますが、今日では湧き水を目にできるのは1年のうちでも限られた時期だけとなってしまいました。

 桜の時期から夏の盛りにかけては、大きな水溜り状態となる新次郎池ですが、8月もはじめ頃には、池の周囲に野生絶滅種とされるキツネノカミソリの橙色の六弁花をいくつか見かけることができました。

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 8月、夏休みでひっそりとしたキャンパスの、さらにひっそりとした池の森には、今を盛りと咲いているクサギの甘い香りが漂い、クロアゲハが一羽、池の干上がり際にとまっていました。

 限られた期間しか湧水を見ないといえども、ここにはまだ野生がいくらか残されている。その証拠に「まむしに注意」の表示板が、池に下りる径の傍らに設えられています。

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 都会の片隅に野生が辛うじて生きながらえているとすれば、人間やカラス、ネコなどの天敵の襲撃を免れ、採餌を維持し、番う相手もいて、めでたくここまで代をつないできたわけです。注連縄は蛇の交接を形象化したもので、実際のそれは27時間もほどけない情熱的なものといいます(吉野裕子『蛇』、講談社学術文庫、1999)。蝉しぐれのなかで、「ここ」におよぶ何億年かの生命のシークエンス・ドラマを想像するとまことに不思議な気持ちにさせられます。

 ところで、都内の著名な湧水池としては、東大本郷キャンパスの三四郎池、明治神宮の清正井(きよまさのいど)、井の頭公園の井の頭池などが挙げられるでしょう。

 このうち、自然の水で涵養されているのはたったひとつ、清正井だけ。神宮の森は明治の終わりにつくられた人工の森ですが、その面積と独立した地形が雨水を集め、都心にあっても辛うじて地下水層を維持できているからなのですね。

 そのほかの池は、善福寺池や石神井公園の三宝寺池も、そうして葛飾区にある23区最大規模の水郷公園である水元公園の水ですら水源涸渇の結果、電動ポンプで地下水を汲み上げ、それを循環させて水景観を維持しています。都立中央図書館のある有栖川公園の池水も、国分寺駅前殿ヶ谷戸庭園の水も例に漏れない。寅さんの産湯となった帝釈天の水も、お参りすれば手水鉢から常に溢れているものの、それはポンプアップ水。東京の池水公園のほとんどは「電動景観」と言って間違いではないのです。

 清正井のほかに、私たちに身近なところで今なお常時豊富な水量を確認できる自然の湧水には、国分寺の真姿の池の湧水群や、国立市のママ下湧水群などが挙げられるでしょう。新次郎池は、限られた時期とはいえ池に注ぐ地下水が見られ、それ以外の時期でも池の水がすっかり涸れあがってしまうということはありません。じわじわとでも、崖(国分寺崖線)からの水は供給されています。新次郎池の湧水は、すくなくともポンプアップされた「偽物景観」ではない。けなげにも、いまだ生命を維持している湧水池というべきでしょう。

 水問題を専門とする守田優氏は、井の頭池の湧水が涸渇したのは「一九五〇年代から始まる武蔵野台地の急激な被圧地下水開発が原因である」と断言しています。つまり一般に都市化が雨水浸透域を減殺すると考えられているけれども、すくなくとも井の頭池の場合はそうではないと。深井戸を水源とする武蔵野地区の水道開発がすすみ、「水循環不全」をひきおこされた。深層の被圧地下水を汲み上げると、浅層の自由地下水にまで影響して、湧水は涸渇するというのです(『地下水は語る』、岩波新書、2012)。

 翻ってわが東京経済大学の水環境を見てみれば、現在なおキャンパス内で供給される水のすべては250メートルもの地下から汲み上げる深層地下水であって、この地下水利用は赤坂葵町から国分寺町(当時)に移転してきた1946年以来70年に及ばんとしています。現在キャンパス内ところどころにおかれている「ピュア・ウォーター」機はその賜物にほかなりません。

 国分寺町にはじめて上水道システムが完成し、送水が開始されるのは1960年。町に市制が施行されるのは1964年で、1975年に水道事業をすべて都に依存するようになったとはいえ、国分寺市の供給上水量の約半分以上は今なお国分寺町が開発した水源(東恋ヶ窪と北町の2ヶ所)から汲み上げている地下水です(『国分寺水道50年』国分寺市環境部水道課、1975)。

 国分寺市域に水道が普及する以前、浅い深いの差はあっても人々は基本的に井戸水ないし湧水(いずれも地下水)に全面的に依存していたわけです。

 そうして、例えば日立中央研究所(1942年創立。国分寺市東恋ヶ窪)や、リオン(旧小林理研製作所。44年創立。同東元町)など、水道普及以前に国分寺市域に創設された企業は東京経済大学と同様、いまだ独自の水源を生かしているところは少なくないと考えられるのです。

 国分寺市域、そして東京経済大学の地下水揚水量などの数字を挙げるのはまたの機会として、ここでは新次郎池の「半死半生」の現状が、このような「地下水利用」と関係があるかもしれないということ、私たちがキャンパス内で使うトイレの水にも、それは関係しているかもしれないという可能性を指摘しておくにとどめましょう。

 往古「水の神」に擬され、そして今日でも私たちがその擬制から恩恵を受けている(「蛇口」)ヘビたちが、すくなくとも今世紀にわたってその生を紡いでいくことができるよう、私たちは「水の場所」を大切にしていきたいものです。

【東京経済大学コミュニケーション学部ブログ「きょうもトケコミ」2016年9月5日掲載】

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大学生の「読書スタート」

最近30歳も半ば過ぎで学士入学した人の話を直接聞く機会があったが、近年世界大学ランキングで「アジア・トップ」の座からズリ落ちたとは言っても、東京大学の「レベル」はやはりそれなりで、学生の語学力や常識、学業つまり読まなければならない文献量のレベルは、私学のトップクラスを出た者にも結構驚く面があったらしい。ただし、そのレベルも学部や学科によって大きく異なるという。
一方、おもに小学生を相手に「読書教育」をすすめている人の話では、子どもと本の関係は、在日のインターナショナル・スクールに学ぶことが多いという。そこで子どもたちは、「学校教育」のなかで、必然的にさまざまな本と出合う。それに反して、「検定教科書」という摩訶不思議な制度が幅をきかせるエリアにあっては、書物の本来的なありかたを理解するのは難しいようだ。

以下は当方の話だが、教えている中堅大学の学生たちに対して、いろいろ考えた挙句、着任1年と3ヶ月にして「基礎読書アンケート」というものを実施してみた。こちらも結構驚くべきところがあった。
とはいえ、わざわざ「アンケート」などをとらなくとも、毎回課題としているレポートに書かれている文章のありようから、それは予想されていたことではあった。世代差を差し引いたとしても、多くは「大学生」としての常識のレベルは低く、レポートの叙述は文章になっていない。体は大きくなったけれど、頭のなかは「幼い」としか言いようのない学生がかなりの割合にのぼるのである(もっとも、最近では小中学校の教員にも、主語・述語が混乱していたり、意味不明の文章を書く人が少なくなく、読書と縁のない先生も多いという)。それでいて、いまの大学生の日常は、学費や家賃支払い等にあてる「アルバイト」で大きく費やされているのである。
アンケートは「基礎」であって、小学校高学年あたりから今日までどのような本を読んできたかをしらべる目的だったが、ごく一部を除いて、教科書などで読まされた以上のものはまったくといっていいほど読んでいない。というよりも、回答の様子から判断して、「本」にはあまり興味なく記憶していない様子が窺われるのである。
例えば「ヘルン」と「ハーン」が同一人物であることを知らない学生や「ラフガディオ」で検索しても出てきません、と言う学生がいた(「ガ」でなくて「カ」なんだけれど……)。
すなわち、あたりまえのことながら、日本の大学ないし大学生の間には大きな格差がある。大学生に「本を読んで」といっても、その読むべきというより彼らが潜り抜けるべき「読書体験」のレベルは、「前提としての格差」によってまったく異なるのである。

一方、大学教員は基本的に本ないし読書が好きで、学業優秀者として社会の階梯を上ってきた人々がほとんどである。二分法でいえば、その多くは人生の勝ち組に属する。その言葉、例えば「本を読め」は、格差社会のなかですでに二分されたとぼんやり意識している学生たちには、ストレートには届き難い。
彼らの本音は、おおむね楽をして「単位」がとれればいいというところに所在する。授業料を無事納め、大学を無事卒業し、どこかしら就職先にひっかかることができればそれでよいと思っている。もちろん、そうでない者もいる。いかほどかの努力をしてでも、何かしらを得たいと思う者は存在する。しかしそれは少数である。
「大学」が水増し状態になったと言えば済むことかも知れない。昔の中学生(?)が大学生と言っているだけといえばそれでいいのかもしれない。しかしこの「格差」の根源には、反知性主義というよりもニヒリズムの匂いが漂う。

本はなぜ読まなければならないのか?
読書は、それ自体が自己目的ではない。それは格好(スタイル)ではない、ステイタスでもない。
ロンドン大学で長く教鞭をとった森嶋通夫(1923‐2004)は、岩波文庫別巻(非売品)の『読書のすすめ』(第5集・1998)で
「読書は思考のための補助行為である。こういう立場からは、(一)書物はそれ自体の学術的価値だけの理由でなく、(二)読者の思考を刺激するように役立つ形で出版されなければならない」と書いた。
そうして「古典」について、「逐語訳をしない」翻訳の鉄則や、適切な編者解説の付いた「思い切った抄訳」が、「出版」としては望ましいと、主張したのである。
それは貴族子弟の高等教育をもっぱらとしたOxbridgeに対して、「最大多数の最大幸福」のJ・ベンサムを奉戴し「公衆にひらかれた大学」を標榜する、ロンドン大学教員の骨頂でもあった。

私の夢想は、日本列島がいまだ縄文時代末期ないし弥生時代初期あった頃に書かれたプラトンの『国家』を、学生たちとともに読むことであった。それは、「今を考える」ためであった。
しかしその行為の実現は、適切な翻訳ないし抄本テキストなしには難しい。さらにひるがえって、本もしくは人が書き残した言葉(テキスト)への、受入れ側の親和的環境なしには、それは成立し得ないのであった。

書き残された言葉も、ある意味で「夢想」である。
その「夢想」をこそ、人は伝え遺し、不断につくりあげる社会の礎とするのである。ニヒリズムではない「夢想」への親和。
そうして夢想は、かつて「本」にあった。しかし、いまそれはかならずしも「本」の形をとる必然性はない。デジタル・メディアに読む言葉も「夢想」でありえる。森嶋通夫の主張は、デジタル社会にこそ生かされるのかも知れない。

本でもスマホでもかまわない。「高校生までの基礎読書」と、それ以後の読書体験に、彼らを導くこと。
一定の本を読むにもあるいは読書にも、読まれるべきテキストの準備が必要であり、また読む側の一定の「育ち」つまり素養(知識)と習練が前提とされる。読みに導く側にも、もちろん素養と習練が前提でなければならない。また、テキストの準備および両者の素養と習練は、それぞれ完了形ではありえず、同時あるいは相互進行形である。
そうして、いま、ここ、の「読書スタートライン」は、ひとりひとりが異なる。しかしその「読書」は、いま、ここ、にいる自分、その存在の根源に触れる「テキスト」でなければ「スタート」しえないのである。

授業としては、学生各自の「基礎スタートライン」もにらみつつ、毎週1点の短篇を選んで「単位直結の課題」(ポイント制)として、読むことを強いている。つまり読んだことを証明すべくレポートさせるのだが、「基礎」のないところでも「吊り橋」を架けるほどの効果はある。並行して、本格的構造物を建てる基礎作業は、もちろん必要なのである。
読書は独りの行為である。他者が強いて介入すべき行為にはなじまない、という伝統的な考えがある。
けれども、私たちをとりまく「世界」は、圧倒的に「読み」を必要としない環境になだれ込んでいる。読めない、そして書けない若者が育っている。「読み、書き」は、意図して、意識して育まれなければトキや二ホンカワウソ状態に近づき、言われただけを受け入れる行動スタイルが基本となるだろう。

児童から若者まで、人間として「考える」ための基礎は、「教育」がなければ成り立ち得ないのである。
大学生にも、まずは「読書への誘い」(あるいは科目めかして「読書学入門」でもよいが)の履修コースが必要なのである。
OECDの「国際到達調査」で、常に上海、韓国、フィンランドの後塵を拝している日本の子どもたちの「読解力」に危機感を抱いたのか、文科省が認可して江戸川区の小学校には「読書科」が設けられたという。
しかし、われわれが直面しているのは「本を読んでこなかった大学生」「これからも本を読まないかもしれない大学生」である。
そのために、とりあえず「岩波少年文庫」をベースに、高校生段階までに読んでおきたい基本図書200点のリストをつくってみた。2学期からのレポート課題のリストとするつもりである。
幸い大学図書館のスタッフがこのリストに目を留めて、とりあえず岩波少年文庫の全冊を導入し配架すると言ってくださった。ありがたいことである。
さらにすすめているのは、《大学生でも、おとなでも、「絵本」》リストの作成である。学生が質の高い絵本に接し、それを彼らが授業中に「読み聞かせ」をする時間も重要ではないかと思うのである。

ところで「読書」からは逸脱してしまうが、《大学生でも、おとなでも、生涯にみておくべき「映画」》リストもつくってみた。年代順に45本。モノクロ映画が主体である。DVDが手に入り難いものもなかにはあるが、ほとんどはレンタルできる。「洋画」に日本語吹き替えなしで親しめるようになることも、ひとつの夢想である。これらの映画は、われわれ、そして若い人たちが、現在を生きるための基本的「素養」のひとつだと思っているのである。

◆戦時改描
戦後日本の地図研究者の一部で言い出され使われていただけなのに、今ではマニアックな地図好きなら大抵知っている、という言葉のひとつに「戦時改描」があります。おもに第二次世界大戦時の旧陸地測量部の地形図に関してですが、爆撃などの対象となりそうな軍事施設や工場や水道施設、皇族らの邸地までを、公園などに描き変えたことを指したものでした。「改描」以前も、例えば要塞地区はそもそも「秘図」として地形図を公開しませんでしたし、皇居や重要軍事施設は「白抜き」とする描法も、実は江戸時代から日本ではおなじみの手法だったのです。しかしながら、そうした子供だましのような情報統制はもっぱら国内つまり自国民向けにしか機能しませんでした。対外的にそれがいかに無意味であったかは、アメリカの公文書館や議会図書館の日本関係資料をチェックするだけでも一目瞭然です。そもそも地形図の改描自体、素人目にも逆に「ここは何かある」と気づくような粗雑な描法が一般的なのですが、現今のマニアの間ではなぜか「戦時下のプロ仕事」として特別視されているようです。
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1932(昭和17)年空中写真測量・三千分一之尺「国分寺北部」から「戦時改描」の例。広大な「白描」部は当時の陸軍多摩技術研究所(ほとんどが現東京学芸大学キャンパス)の敷地

◆地理空間情報統制法
デジタル・ネット環境が一般化した今日では、地図どころかそのもととなる情報つまり空中写真なども個人で手に入れることは容易で、またそれを加工してそれぞれの目的にあった地図すら作り出せるようになりました。だからというべきか、最近インド政府は地図や人工衛星画像データの利用を許可制とする「地理空間情報統制法案」(Geospatial Information Regulation Bill)を発表しました。これに対してインド国内では「Save The Map(地図を救え)」キャンペーンがオンラインで広まっています。法案は「30年以上前」への逆行で、それによってニュー・ビジネス全般が委縮するばかりでなく、現在のグーグルやアップルなどのインターネット情報一般に悪影響を及ぼすことを恐れると言います。
当局は、それが最終的なものではないとし、法案に対する意見を求めて事態の鎮静化を促す一方、パキスタンなどに根拠地をもつテロリスト攻撃の可能性への注意を喚起し、国境と領域保護の観点から法の必要性を主張しています。しかしながら、当局がどのように訴えようと、今やGeospatial Informationすなわち地図や衛星画像などの「地理空間情報」は、どこからでも、誰もが、容易に入手できる時代です。仮にそれが成立したとしても、当面する目的のためには実効性をもち得ず、一般情報の質と信頼性を低下させるだけになるのは、火を見るより明らかなのです。

◆支配と情報
しかしながら為政者の「情報統制」への欲望は、それが実効性をもたず、非合理で愚かなものであったとしても、いつの時代も消滅することはないでしょう。なぜならば、「権力の性向は、常に権力維持そのものに向かう」からです。つまり、人間の人間に対する支配とは、秘密にしたり制限したりする、「許認可権」そのものに由来し、国家官僚であろうと地方公共団体の小役人であろうと、ひとたび支配の側に立てばそれを手放そうとしないばかりか、密かに、あるいは今回の例のように正面から、権限の拡張に腐心するのが通則で、それはなんといっても許認可権が「力」の淵源であり、また贈収賄と「天下り先」の温床に他ならないからなのです。
国家官僚による専制政治が長い伝統である、日本を含む東アジアにおいて、地図は支配の道具として世界の歴史のなかでもきわめて早くから発達しました。だからというべきか、逆にというべきか、現代中国にあっては、地図は一般的に流通しているものの、標高数値などを記載した「地形図」は、一般には見ることも手に入れることもできないのです。また流通している地図においても、当局の情報統制は行き届いていると見なければならないでしょう。かつての日本のそれのようにラフではない、スマートな「改描地図」が流通している国々も少なくないでしょう。
インドの規制法案は、私たちが対岸の火事と思って澄ましていられるような出来事ではありません。極東の島国においても、「公共測量の成果」(地形図や地図のもと・あるいは地形図そのもの)を使用ないし利用するには、いまだに「申請」し「許可」を得る必要があるのです。
また、2011年3月11日以降の一定期間、日本列島に住まう人々がもっとも必要とし、あるいはもっとも関心をもっていた情報を端的に示す、緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)というデジタル地図が非公開とされた事実も想起されるでしょう。この場合は、そのシステム構築に膨大な税予算が投入されたという事実とともに、非公開が多くの地域住民の被曝という直接的な被災をもたらしたわけですから、実効性のない「戦時改描」などとは比較にならない「日本地図史上の一大愚件」だったのです。

情報統制によって維持される権力はいずれ腐敗し、「お上」の情報に対する信頼は空洞化します。つまりアンダーグラウンドの情報系がオフィシャルな情報基盤を文字通り侵食し、それを崩壊させることになるです。したがって、開かれた情報により、権力そのものが常に相対化されている状態こそ、人間社会が安定して維持される「定常系」であると言っていいのです。

芳賀 啓(日本地図学会評議員・東京経済大学客員教授)

*以上は「時事通信」のコメントライナー(2016・6・16配信)の原文です。配信文は400字ほどカットしています。

前項でも「ひとりよがり」という言葉を使用したが、それが「本腰を入れる」と同様、遊郭ないしはセックス現場に淵源をもつ可能性は否定できない。
日本の政治家がよく使用した(する?)「弱腰」や「腰砕け」なども同様で、彼らの「馴染み具合」を推測できるかもしれない。
また大陸から切り離された「島」という地理的条件は、「日本」の「ひとりよがり」を一定限度保育するものでもあった(ある)。

日本の文化イメージは、「悲しきひとりよがり」の上に成り立っている場合が多いのである。

例えば「縄文」である。
ひと昔前では岡本太郎、こんにちでは中沢新一などがすぐその例に挙げられるだろうが、「わかりやすい」縄文賛仰論者はアーティストにもエコロジストにも少なくない。
1万2千年ほど継続した縄文時代が現代日本文化の基底に存在するもののひとつであることは疑いないとして、例えば「森の文化」などというように、それが孤絶して発達した、世界に冠たる社会・文化であるかのように言いなすのは、もちろん誤りである。ひとりよがりである。
志賀重昂(『日本風景論』)から梅棹忠夫(『文明の生態史観』)、中沢にまで伝統的な、森林、草原、砂漠などという独特の景観論的手法は、時間的にも空間的にも相対的な位相にとどまり、分類整理はできたとしても、そこから人類史の本質に踏み込むわけではない。

縄文時代は、世界史では新石器時代と言う。
長い旧石器時代のあとに誕生したその時代を特徴づけるのは、土器であり、弓矢や網であり、新たに依存するようになった海産物であり、小規模な集団社会であり、呪術であり、そうして焼き畑農業である。
弥生時代やその後の歴史時代のような大規模な戦争の痕跡はみられないとしても、人為的環境破壊の「ステージ1」はすでに幕を開けていたのである。

ひとつは土器焼成である。
もうひとつは焼き畑である。

いずれも今日に比べれば桁違いではあるが、「森林破壊」が人間社会の基底に存在したのである。
広大で鬱蒼とした照葉樹林が昆虫や爬虫類、鳥獣とともに焼き払われ、ススキなどが卓越する「武蔵野」の風景ができあがったのは縄文時代と考えられている。

付け加えれば、盛大な「焚き火」の結果土器が焼成されたとしても、それは基本的に脆く、重く、水の長時間保留にも耐えない器物であった。
水汲みには、もっぱらヒョウタンなどの植物性の器か革袋が用いられたはずだ。
逆に言えば、とりわけ装飾突起の多い縄文土器は、人間生存のもっとも基本にある水汲みには縁遠い代物だった。
「焼き物」は今日においてなお「人工(art)」のひとつの極北であり、したがって「蕩尽」や「道楽」と無縁ではないのである。

「炭焼き」や「木炭」についても、現代人のうちのある種の人々の憧憬は「縄文」に対するのと似たような様相を呈している。
炭焼きや木炭がエコロジーの技法として今日の社会に復活されるべきである、というのはアナクロな短絡思考というほかない。

なぜならば、薪炭と一括される薪と木炭を対比してみれば、木炭はそれ自体を生み出すために、自らに倍する燃料を必要とするからである。したがって、たとえば一定の炊事に必要な熱量を生み出す森林破壊の度合は、木炭のほうが格段に大きいと見做さなければならないのである。

火力自体は、薪も木炭も同じようなものであった。
それにもかかわらず木炭は、人類の「燃料革命」のステージ1に存在した。
なぜならば木炭は煙も火焔もすくなく、安定的に長時間燃焼が維持され、コントロールの容易な火力であったからである。
なによりも送風装置(ふいご)を付加することにより、人類は木炭燃焼を通じて金属器を創出する熱量を得たのである。

ところで日本列島の縄文文化は、金属器には基本的に無縁の文化であったというのが一般的な認識である。
隣の大陸においては、5000年ほど前に青銅器文化が誕生し、その後隆盛を誇る。
一見孤絶したような縄文文化ではあったが、大陸との人的交渉があったのは山形県羽黒町中川代遺跡から出土した「刻文付有孔石斧」が約4000年前の中国の龍山文化につながるものである(我孫子昭二「刻文有孔石斧の謎が解明された」『季刊Collegio』No.60)ことからも明らかである。大陸からの亡命者が、東日本の縄文文化集団に迎えられていたのである。

つまり、日本列島の縄文文化は孤絶して開花し、長い時代を安定的に存在した独特の文化、などではなかったのである。
そのことを考慮に入れれば、縄文時代に金属器こそ一般化することはなかったものの、木炭焼成技術はすでに移入されていたと考えることは容易である。

いずれにしても縄文文化も、炭焼き文化も、人類が不可避的にたどってきたステージのそれぞれに位置している。
それらをことさらに称揚するのは、アートであるか、宗教(ないしは神秘主義)であるかのいずれかであろう。
アートや宗教のひとりよがりは、今日世界が直面する問題の本質から視線をずらさせ、「唯稲主義」に陥ったクメール・ルージュのように、条件次第では奈落まで人を導く危険性をはらんでいるのである。

わかりやすい「景観分類」の文脈で言い換えれば、現代において「森の文化」は存在しえない。
現代都市ないし現代農業、つまりは石油文明によって生を維持するわれわれは、遠い昔に離陸を済ませ、森も草原も過ぎて、砂漠の真上を飛んでいる。視界は砂漠のみである。
その先は、まだ何もみえないのである。

 客:句会やってるんだって?
 主:主宰しているわけではないけど、世話係みたいなことをやって7年目かな。
 客:飽きっぽい君にしては、よくつづくね。
 主:さすがに最近は悩むよ。これでいいのかとね。
 客:なんだい、それは。

 主:うん。われわれのやっているのは結局「呑み屋句会」なんだけど、「新宿ゴールデン街の文壇バー」(ロバート・キャンベル)とも言われたところだから、発足時はそれなりの人たちがいたのね。つまり、短詩型文学というか、戦後俳句の到達点とまでは言わないけれど、ある程度の常識が、句会の場でなんとなく共有されていた。
 けれどもいま若い人たちというか、「初心者」クラスが多くを占めるようになってしまうと、そうした前提が取り払われて、何でもあり。選句に困るものが多くなった。

 客:いまの若い人たちは酒場で批判したり、議論しないから学べないんだろうな。それをやったらたちまち来なくなるだろう。批判しないで、誉められるものを誉めるだけにしたら?
 主:うーん、それも難しい面がある。何といっても、若い人たちの句には「芸事俳句」とでも言うべき傾向があるからね。掛詞に走ってしまうなど、その典型なんだな。俳句は芸事の一種だと思っているらしい。
 去年は学生に毎回授業(「表現と批評2」)の課題として俳句をつくらせてみたけど、最後まで5・7・5、17音ならべただけという結果におわった。それに較べれば、もちろん「作品」たらんと工夫して、一応「形」になっているけどね。
 客:「芸事俳句」か。「うまいッ、座布団一枚ッ」だな。つまりは「型」の世界ね。たしかに誉めたらその「型芸」を誉めることにしかならないな。

 主:人間存在の深淵から宇宙の極大までを表現するに至った現代俳句だが、その裾野は退嬰して季語を中心とした「盆栽芸」になりさがっている構図だね。
 夏石番矢は「短詩型に託されるのが、日記風の季節感だけだとしたら、たいへんおそまつな話だ。季節感を突きぬけた世界観や宇宙観、あるいは人間観が問われない詩などは、滅亡すればよい」(『現代俳句キーワード辞典』1990)と言っていたが、その感をますます強くするよ。
 

 客:俳句の「季語」というのは、近年テレビや雑誌、出版でも大流行の「日本すごい(スペシャル・万歳・美しい)」の淵源のひとつではないのかね。つまるところ、「ひとりよがり」の「日本イデオロギー」。それも決して江戸時代に遡るものではなく、高浜虚子あたり以降の根の浅いものだが。
 思うに戸坂潤(『日本イデオロギー論』1936)も、過去のものと澄ましているわけにはいかないんじゃないかな。もちろん、竹内好(『日本イデオロギー』1952)もね。
 主:うん。竹内は最近読み返して、「古典」であることを確認したよ。戦前であろうと戦後であろうと、「構図」の変わらないところが「日本」なのね。

 客:いや、構図だけは格段に深く、大きくなったよ。「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」(アドルノ)という言葉があるけれど、われわれは「3・11以後、季節や自然をうたうのは野蛮である」というべきなんだ。
 「国破れて山河あり」は遠い過去。S・アレクシエービッチの「あの時から、世界はまったく変わったのです」(『チェルノブイリの祈り』)は、現在を生きるすべての人間、いや生物についてあてはまるのだからね。

 主:世界は、ひとりよがり「季語」や「日本」を置いてきぼりにして異次元に突き進んだのね。そのことに鈍感なのか、あるいは耳目をふさいでいるのか。俳句にかぎらないけれど、「日記風の季節感」やエピソード、ないしは絵空事を仕立てて見せるのは、もう勘弁してもらいたいな。
 客:そう露骨にも言えないだろうから、まずは阿部筲人の『俳句 四合目からの出発』(講談社学術文庫)あたりを薦めて、「日本語月並み表現の恐るべき均一性」を、警告してみたらどうかね。
 主:それもいいかな。

テレビ番組や出版を契機とした「地形ブーム」というのがいいまだ健在らしい。
しかしその多くは東京を中心とした巨大都市圏に住む者のひまつぶしないしはマニアックな所業の延長であって、私の関与するところではない。
拙著『江戸の崖 東京の崖』が代表だが、その主張は「地形マニア」の「さまざまな意匠」とは隔絶しているのである。

東京というよりも、日本列島上の「首都圏」は、その存在自体が「崖」であり、「奇形」である、というのがその主張である。
そうして、現在は「江戸時代」につづく「東京時代」であって、その「東京時代」(東京国家)を「止揚」しなければ、われわれの未来はありえない、というのが究極の主張である。すなわち、われわれが生き残る道は、「都」も、「東京」も、廃棄することにしか存在しないのである。

地表上きわめて特殊な、4枚のプレート(岩盤)のせめぎあう「新規造山帯」に位置する日本列島において、「巨大災害」は地表上これまたきわめて特殊な人口集中地域(首都圏)に必然的に生起する、不可避な現象である。災害の規模は、人口の集中規模と「都市化」の度合に比例して昂進するからである。
人間が「地形」を考察するには、「人間の土地」から「人間」を切り離し、そうして再度「人間と地形」の現在を対象化しなければならない。
こうした規定性に目を向けない、どうでもいいような「景観論議」(その多くは建築系の構造論者およびそれに追随するおっちょこちょいやノー天気派、そしてタレントであるが)、マニアックな知ったかぶりは、すべて無効である。

ところで、大学の新聞会といえば、硬派学生の代表格のようなものだったが、過去と現在は隔絶しているらしい。
しかしその新聞会から取材があって、私の話が『THYME』(東京経済大学新聞会)という雑誌に掲載された。
以下は学生の聞き書きだが、それはそれでよいと思っている。

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